ツレが会社を辞めまして 

夫が会社を辞めました!夫実家でのセカンドライフについて赤裸々に綴っています。

真央さんの死に思うこと

真央さんの死について、いろんな方が書いているのを見るけど・・・なにが良くて、何が良いのかを論じることは無意味だと思ってる。スピにつなげて語ろうと、耳当たりのいい言葉を並べようと、バッシングしようと、それはその人の自由であって、誰かに制限されるものじゃない。なぜ人はすぐジャッジしようとするんだろう?

 

19の時に、大切な人を癌で亡くし、29の時に、娘を亡くした。どちらも当時の記憶がなくて、自分にとってどれだけ衝撃の大きな事実だったかが良くわかる。どちらもたくさんの人が私に声をかけてくれて寄り添ってくれて、どちらも10年以上の年月をかけて、乗り越えてきた。乗り越えてきたという表現があってるのかすらわからない。
 
悲しみの真っただ中は、どんな言葉も耳にしたくなかったし、逆にどんな言葉も慰めになり、どんな言葉も有難かった。でも、どんな言葉も辛くもあった。

本当の辛さや悲しみは、その人本人にしかわからなくて、結局は他の誰も、その悲しみを想像することしかできない。亡くしてからの日々をどう過ごしていくかも、本人が選ぶことであって、あーしたほうがいいとか、こーしたほうがいいとか、そんなのはどうだっていい。周りの人がどう思っても、それはその人たちの自由なんだよな。
 


娘を亡くして、いろんなことに傷つき苦しんできたけれど、その中で一番泣いて悲しめて、心癒されたのはスピ的な方から聞いた話だった。今は娘がただ生まれ、ただ死んだのだと理解できているけど、当時はそこに、何か理由をつけないと私が生きていけなかった。そんな時、支えになったのは私の痛みや苦しみを分かち合おうと寄り添ってくれた人たちの存在と、たくさんの人が欠けてくれた言葉の中の、ごく一部の私の心に響いた言葉と、家族の存在だった。娘の生と死に意味があったと思えたから、私は生きていけたといっても過言ではないかもしれない。

 

スピや使命で語ることがそんなに悪いことなのかな、と思う。それが知らない人だからいけないのか、知ってる人ならいいのか。知らない人にかけられた言葉が全部、私の心に響かなかったかといえばそうではない。知らなかった人ほど悲しみを理解してくれたこともあれば、温かい心をもらったこともある。丁寧に話してくれたことが心に刺さったこともあるし、特別な言葉は何一つなかったけれど癒されたこともたくさんある。どんな言葉でも、それが自分の意に沿う言葉じゃなかったとしても、私の悲しみに寄り添おうとしてくれている、ただその事実だけでよかった時期もあった。

 

まだ温かい手が、その温かさを少しずつ少しずつ失っていく時間。柔らかかった肌が固くなり、冷たく固くなるその時。その人のぬくもりや冷たささえ失ってしまう最後の儀式のあの絶望感。虚無感。なにもなくなったんだと悟るしかない、その時。いつだってあの瞬間に戻れる。いつだって、心の底から忘れられたことはないのだから。

 

うまくいえないけれど、だれがどう思おうと、その人の自由なんだ。自分のように悲しんでも、悲しまなくても、何か思ってくれても思ってくれなくても、言葉をかけてくれても、くれなくても、それで事実が変わるわけじゃない。悲しみが少し癒えることも、余計に傷つくことがあっても、それでも事実が変わるわけじゃないんだ。

 

失った人たちは戻らない。あのぬくもりは、もう戻らない。それを外野からガタガタいうのは野暮ってもんだよ。。。

 

愛だ使命だなんて嘘っぱちだと思いたければ思えばいい。スピは関係ないといいたければいえばいい。本当のところは、体験した人じゃないとわからないんだから。わたしはどんな言葉でも、わたしとあの人、娘に欠けれくれた言葉やこころに感謝した。ただそれだけなんだ。

 

死を悼む気持ちは、人それぞれ。わたしはそれを否定したくない。否定しないでほしい。